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N・Y君(成蹊高3) 筑波大学人文・文化学群比較文化学類合格(進学先)
             他合格校:明治大学文学部

私はほかの皆さんのように紆余曲折あったわけでもないし受験がものすごく辛かったとか悩んだとかもあまりなく、がむしゃらに勉強していたら受かったという感じなので体験記を通して伝えられることはあまりないかもしれません。ですが、ほかの塾生とはすこし違うであろう部分を中心に書いてみようと思います。少しでも参考になるところがあれば幸いです。


<入塾経緯とそれまでの勉強状況>
私が嚮心塾に通い始めたのは高校一年生の春頃でした。嚮心塾へは友達がもともと通っていてその友達の紹介で行くことになりました。

当時、私は近所の小さな塾と英語の塾に通っていて一時期3つの塾を掛け持ちしていたことになります。近所の塾には小学生のころに算数と英文法をやってもらっていて、中学生・高校生になってからは数学のみ続け、受験期も主に数学と古文でお世話になりました。その塾では学校で分からなかった、やってくれなかったところを補っていてもらっていたので、受験勉強を始めたときあまり負債がなく始めることができました。英語の塾は中学1年生の時に親のすすめで入りましたが、週一で英語のプレゼンをしなくてはならず、英語の勉強よりも資料作りに時間がかかり意味がないなと思い高校1年の時にやめました。

私が通っていた学校は小中高一貫だったので、小中学生のときは学校の勉強だけをしていました。学校の勉強というものは基本的に範囲が決まっていて授業でやった範囲しか出ず、もともと勉強は好きだったので基本的に授業をクソ真面目に聞いて2週間前ぐらいから授業内容をまるっと暗記すれば定期試験は中の上から上の下くらいの点数は取れていました。暗記で対応できない数学は近所の塾できっちり対策してもらっていたし、英語は小学校5、6年のうちに近所の塾で中学範囲の文法をほぼすべて終わらせていたので中学の間はその貯金だけでなんとかやり過ごしていました。(うちの学校の中学英語科は最悪で、全教員が一切文法事項を教えずひたすら英文を読んだり話したりする授業をしていました。)

高校に上がり、ぼちぼち受験に向けて勉強を始めようと思ったとき定期試験のようなやり方では通用しないなとうすうす感じつつも、私にとって受験は小学校受験(大学受験とは別物だし、そもそもほとんど記憶にない)以来で、大学受験がほとんど人生で初めてする受験だったので何をすればいいのか全く分かっていませんでした。内部進学するという手もありましたが、人生の中で一度くらい本気で勉強してみたいと思い外部受験を選び、大学でなにかしら研究をしたかったので国公立を目指すことにしました。しかし、国公立大は共通テスト含め6教科7~8科目も勉強が必要となり近所の塾では全対応は難しいだろうということで、嚮心塾に通うこととなりました。


<嚮心塾に入塾してから>
高1の間は英語と数学を中心に勉強を進め、高2ごろからは古典と社会科が加わりました。英語に関しては小学生のうちに中学の文法をだいたい理解していたので高校の文法にもスムーズに入ることができました。英語の品詞分解に関してはかなり革命的で英文が一気にクリアに見えるようになったと思います。

進路を考えるうえで地理学を勉強したいと思い大学を調べ始めましたが、地理学を学べる国公立は少なく、高3の4月ごろに東大を受けることにしました。(この時点では筑波大はほとんど選択肢に入っていなかったので大学調べはちゃんとやりましょう。)ここで問題になるのが東大は社会科が二科目あるということです。地理学を先行したかったので社会科は地理の勉強だけをしていました。柳原先生や学校の先生と相談した結果、東大入試では知識量があまり問われない日本史を選択することにしました。(おそらくここで相談していなかったら比較的興味のあった世界史を選択して地獄を見ていた気がします。)

柳原先生と相談して、高3の学校の授業は1番コマ数の少ないコースを選びました。自分は内職が下手なので、授業はまじめに聞いていた代わりにテスト勉強は授業中と前日だけしていました。社会科の授業(政治経済・倫理)の授業だけは面白かったしその後も役に立ったのですが、そのほかの授業はつまらなかったし聞いていても聞いていなくてもあまり変わらなかった気がします。発表の授業があったとき(そもそも高3に発表なんてさせる教員がクソなのですが)、チームメンバーが手を抜くなか無駄に完璧主義の自分はいいかげんなまま終わらせることができず、苦しみながらほかのメンバーの分まで資料を作っていました。中途半端にせず、無駄だと思ったものは学校の評価は割り切って手を抜いておけばよかったなと今となっては思います。

高1、高2のころは平日約3~4時間、休日は長くて6時間くらい勉強していた気がします。高3は学校の授業のコマ数が減ったので、授業が昼までに終わる日は友達と昼を食べてから13:30くらいから、午後まである日は15:00~16:00から始めてたいてい塾が閉まる9:30まで勉強していました。休日は11:00ごろから9:30まで先生が帰った後も残っていました(さすがに共テ直前は気合を入れて朝9:30にきていましたが、本当はもっと早い時期から朝早く来ておくべきだと思います。)火曜日は西荻駅前のコメダ珈琲で放課後に友達とカフェ勉していました(コーヒー一杯で長居させてもらって申し訳なかったです。あとお金が溶けます。)

 受験勉強における一番の反省は高3の夏~秋に英単語をほとんどやっていなかったことです。品詞分解することで単語自体を知らなくても文構造が取れてしまうがためにある程度意味が類推できてしまい、なんとかそれっぽい文章はできていたので単語をサボっていて、直前期にがんばって詰め込むはめになりました。類推しなくてもいい単語が多ければ多いほど時間短縮になるのでめんどくさくても単語はコツコツやりましょう。(ちなみに、英単語は語源を調べてパーツごとの意味や同語源の言葉をふせんに書いて貼り付けて覚える手がかりにしていました。そのおかげなのか単語をあまりやっていなかった割には定着していた気がします。)もう一つの反省点は共テの理科基礎の勉強を始めるのが遅かったことです。周りが共テの理科(文系)や社会(理系)を始める中、自分も始めた方がいいのかな?と思いつつ柳原先生から「そろそろやろうぜ」と言われるのを待っていました。結果として直前期に過去問を解いても知識不足で点が取れないところが多く、しっかり参考書や解説を読み返す時間が取れていませんでした。本番でも生物基礎と地学基礎の合計で7割ほどしか取れず、全体の足を引っ張る結果となってしまいました。問題や教科書の質問だけでなく、勉強法についてもすこしでも疑問を感じたらためらわず積極的に先生に相談することをお勧めします。

共通テストは799点(1000点中)で今年東大文系の足切りが上がったこともあり確実に足切りを通過するとは言えない点数でした(結果的には大丈夫でした)。共テリサーチの結果が出るまで万が一のことも考えほかの国公立を調べているうちに、以前学校の地理の先生に進路相談に行ったときに上がっていた筑波大学の人文・文化学群比較文化学類を思い出しました。東大と筑波の(入試以外の)違いは、東大は1~2年生の間は教養科目を学び3年生になるときに進振りがあってそこから専門分野について学んでいくのに対し、筑波は1年生から専門科目について学ぶという点です。柳原先生曰く、東大は「東大生ならほかの大学生が4年間でやっていることも2年間で出来るよね?」というスタンスで、その他の大学では専門分野はきっちりと学部で学べるのに対してほかの分野は自分で勉強しなくてはならない、ということでした。この話を聞いてかなりイメージを持ちやすくなったと思います。結果として、自分はやりたい分野が決まっており1年次から専門分野を学びたいということや、万が一進振りで希望の分野に進めなかった場合東大に行ったとしても自分のやりたい勉強ができないということも考え、筑波大学を受験することにしました。

1月の終わりごろから筑波大の過去問を解いていったわけですが、それまで解いたこともなかったので0からのスタートでした。特に最初解いたとき地理の地形図問題と国語の現代文への取り組み方が全く分からなかったのですが、柳原先生から地形図では図に書き込むことや、現代文では問題文に疑問詞を書いていく方法を教わってからは全く手も足も出ないということはなくなりました。一方、記述式の勉強で最期までネックになったのが漢字や誤字脱字です。自分は漢字が苦手という自覚はあったのですが、面倒くさくて放置していました。記述の中で漢字が書けなくて減点されるということはほとんどないそうなのですが、文字数が足りなくなったり、誤字で減点されたりするので毎日練習していました。漢字に苦手意識がある人はできるだけ早めに対策を始めることをおすすめします。誤字脱字は「教科の勉強をするより誤字脱字を減らした方が点数は上がる」と言われるほどひどかったです。最終的に、解くスピードを上げて残りの時間で徹底的に誤字脱字チェックをする、という方法でなんとか減らしていましたがそれでも本番でも多少ありました。私立の直前は1日に筑波の過去問1教科、私立の過去問1教科といったペースで解いていました。筑波の過去問は8年分くらいやりましたが、地理の4問中2問はほぼ過去問と同じだったので遡っておいてよかったと思います。


私はかなりメンタルが弱く、逆に無理やり楽観的に考えることでなんとか保っていました。共通テストも二次試験も試験前は「失敗したくない!」と思わずに、「失敗したら自分の実力不足だからしゃーない」と割り切るように自分に言い聞かせて常に望んでいたのが良かったと自分としては思います。共通テストで数学ⅠAが全然振るわなかったときも気持ちを切り替えてⅡBCに臨むことができましたし(結局ⅡBCもそこまで良い点数ではなかったのですが)、受験全体としてメンタルを安定させることができました。


<ほかの塾との併用について>
前述のとおり、受験期は主に嚮心塾と近所の塾を併用していました。その近所の塾は授業型の塾で数学は個別、古文は5~6人のクラスで授業をしてもらっていました。小学校のころから通っていた塾で私の苦手なところ、ミスしやすいところを熟知してもらっていました。

両塾の利用方法としては嚮心塾をベースとして毎日通いつつ、週一回、嚮心塾を早めに切り上げて夕方から夜にかけて数学と古文の授業を連続して受けていました。数学は一番の苦手科目であり、柳原先生にわからないところはすぐ質問するようにしていましたが、分かっていないことを分かっていないところもあり個別授業で徹底的につぶしてもらっていました。古文は学校の授業で2年生のときに文法事項をほとんど教えてもらえず苦手意識を持っていたので、嚮心塾で古文の勉強をはじめる少し前に基礎の基礎からやってもらっていました。また、共テや二次の直前は嚮心塾で勉強した後、夜に対策を個別でやってもらっていました。対策では主に解いた過去問の解説や添削をしてもらっていました。もちろん柳原先生にも質問したり、添削してもらったりするのですが二重にすることは意味があったと思います。逆に言えば、それ以外の勉強は基本的に嚮心塾だけで完結していました。勉強の方法は教科別でも人によって合う合わないがあると思います。どの参考書もあんまり頭にはいらないなぁ...ということがあれば授業型の塾との併用を検討してみてもいいかもしれません。

なにより二つの塾に通っていてよかったことは受験や勉強の相談はもちろん、他愛ない雑談を安心してできる先が二つあったことです。勉強を様々な角度から捉えることができただけでなく、いざという時にどちらにも頼ることができるという安心感が大きかったと感じています。


<地理受験について>
 私は社会科を地理メインで受けました。地理で受験できる大学は多くなく、東大で社会の2科目として選択する人はいてもメインの科目で使う人は少ないと思いますが、もしそのような人がいたら参考してもらえればとおもいます。

まず前提として、共通テストと私立大と国公立大の出題方法や問われるものはほとんど別物です。共通テストは図やグラフを読み取りそれをもとに知識と結び付けて考察させる問題がメインで単純な知識問題は少なめです(地名は多くても1、2問しか出ないし、ケッペンの気候区分そのものに関してはほとんど出ない)。一方、私立は図・グラフの読み取り問題もありますが大部分が知識問題です。地名、地形の名前、現象などをどれだけ覚えているか勝負です。私は共テ後私立対策を始めてから地名などを頑張って覚えましたが全然足りないまま受験を迎えてしまいました。なによりも、各都市には面白い特徴や歴史があるはずなのですが時間がなかったために単純暗記せざるを得なかったのが悔やまれます。国公立大学は(ちゃんと解いた問題が筑波と東大しかないので断定的なことはいえないのですが)総じて地図やデータを読み取り特徴やその背景を説明させる問題が多い印象です。産業や世界情勢について地域ごとの特色や立地を覚えているだけでなく、その自然的・社会的背景までしっかりと理解し、言語化できる必要があると思います。

地理を1~2年勉強したうえでの私の感想なのですがどの方式でも、各国、各特産物、各産業についてイメージを持っていることが大切だと思います。例えば、「スペイン→地中海性気候、地中海式農業(オレンジ、ブドウ、オリーブ等)、バスク地方&カタルーニャ地方、EUの中では経済水準は比較的低め、較的安価な労働力をもとにしたEU向け工業が北部で発達、バカンスでEU内からの旅行客が多い」といったふうに「この国(特産物/産業)といえば」を瞬時に、かつできるだけ幅広く連想できるように参考書などを何度も読み返していました。もちろんその因果関係を理解し説明できることや、知らない土地に対してもデータをもとに考察できる思考力を鍛えることも大切です。

塾で最初に渡された参考書は『瀬川 地理B 講義の実況中継』でした。それを二周くらいした後、この参考書がちょっと古めだったので最新の情報が欲しいと思い、同じ著者の『大学入学共通テスト 地理Bの点数が面白いほどとれる本』を購入し読み込んでいました。またそのほかに資料集の『新詳地理資料集 COMPLETE 2024』『図説地理資料集 世界の諸地域NOW 2024』(内容的にはあまり変わらないのでどちらかでいいと思います)、データブックの解説書の『データが読めると世界はこんなに面白い データブック オブ・ザ・ワールド入門』も購入して読んでいました。世に出回っている地理の参考書は共通テスト用が多く、2次試験で出る共テ用の参考書に乗っていない知識はこれらの本から得ていました。また、地図帳とデータブック(『データブック オブ・ザ・ワールド 2024』)はすべて読むのではなく、参考書を読んでいたり問題を解いたりしていて気になった部分のみを参照していました。


<おわりに>
 受験には受かったものの完璧だと思えた教科は1つもなく、勉強すればするほどもっと勉強しなくてはと感じられます。限られた範囲を丸覚えするような学校のテスト対策だけしていてはこの感覚は決して身につかないものだと思います。これから先、大学で試験範囲など存在しない「研究」というものをしていく上でどうやって自分で勉強していくかを少しでも掴めたことは自分にとって大きな財産になったと思います。

 合格体験記を書くにあたりほかの人の様々な合格体験記を読んで自分はとても恵まれた環境で勉強に集中できていたことを痛感しました。柳原先生をはじめ、家族や友達など様々な人の支えがあり自分は安心して受験に臨むことができました。学力を伸ばせたことももちろんですが、個人的にはこの塾が精神的な支えになっていた部分も大きかったと思います。思い返せば、不安にならざるを得ない試験の前日はいつも柳原先生の言葉に救われていた気がします。行くといつでも柳原先生やほかの受験生がいて、勉強や進路の相談から雑談までなんでも話せる塾は日本中どこをさがしてもここしかないと思います。

改めて、3年間大変お世話になりました!







K・Rさん(鷗友学園卒)日本医科大学医学部医学科(千葉県枠)
合格(進学先)

他合格校:国際医療福祉大学医学部、順天堂大学医学部(1次合格)、東京医科大学医学部(1次合格)、昭和大学医学部(1次合格)、東邦大学医学部(1次合格)、北里大学医学部(1次合格)、杏林大学医学部(1次合格)、聖マリアンナ医科大学(1次合格)、日大歯学部

この塾での日々はあまりに濃密で、この体験記を書くことで本当の終止符を打つようで、ずっと居心地の良かった関係や場所と離れる、そんな寂しさや怖さがある。ただそれでも、「言語化をする」ということこそ、私が嚮心塾で学んだ最も大切なことの一つなので、書こうと思う。多少暗かったり、救いようのない話もあると思うが、私は文章の中でだけは嘘をつけない。

 小学生の時は比較的勉強が得意だった。某大手塾に通い、サボるということを知らず、塾で出された宿題を淡々とこなしているだけでなんとなくずっと成績が良かった。御三家の中学を目指していたが落ちて、第三志望の中学に入学した。中学生の時は勉強をしていた記憶がほとんどない。恥ずかしながら当時の私は勉強ができないだけでなく、すごく頭の悪い中学生だったので、友達と「うちら学年ビリレベルじゃね」とか言って笑い合っていた。試験前日に一夜漬けをするくらいで、毎日遊びと部活に明け暮れた。勉強から自由になって初めて、勉強することが必要であることに気づけたのであるので、遊びまくっていたこの時期は私の人生において重要だった。あと兄弟が2人とも受験をしていた時期で、私はうるさく勉強しろと言われなかったので、余計に自由に遊ぶことができていて、勉強をしなければいけないと言うことに自分で気づけた気がする。転機が訪れたのは中3の終わり。笑い合っていた友達が急に成績が良くなって、あれもしかしてこいつに負けてんのやばくねと流石に危機感を覚え、また兄弟が高3まで勉強していなくて苦労をしているところを見て、勉強ってしたほうがいいのかもと思うようになった。高一から日常的に勉強を始めた。最初は定期テストをガチることから始めた。定期テストは、受験には直結しないが、勉強のやる気を出すという意味では、名前の通り定期的にあるので良い材料だと思う。おかげで勉強習慣がついた。

 さて、何もせず3年間を過ごした私は何から始めたら良いのか。と考えたところ、どうやら伸びるのに時間を要し、かつ一回実力をつければなかなか落ちないのは英語らしい。我ながらこの思考回路に至った私は賢いと思うのだが、そんなこんなで英語の勉強を始めた。私の中高はオールイングリッシュという謎の教育指導をしており、中学の時はひたすら英語の本を読まされ、文法なんて一つもやらない学校だった。学校は遊ぶものと思っていた私は当然英語の本なんて読むはずもなく、というか読んでる友達はみんな塾で英語を勉強していて、それをしていない私は何もわからず、学校に提出する読書記録的なやつ(ノルマが指定されている)はそこら辺にある図書館の英語の本を読んだことにして詐称して提出していた。学校の英語教育は信用できなかったので家の近くの英語塾に通い、「品詞とは何か」「受動態とはなにか」というところから始めて、徹底的に文法を叩き込み、高一は基本的にはずっと英語の勉強をしていた。休みの日と平日平均4時間くらいは勉強した。英検二級を持っていたので、準一を目指そうと思い、単語もやった。おかげで高2の春に準一に合格した。数学はSEGに通っていた。SEGは授業ではほぼ何もわからず、というか板書量えぐいほど多くてほぼそっちにエネルギーを費やし、復習をまあまあ真剣にやっていたくらいで、特筆することはないが、高二の途中まで、IAとIIBを終えるまで通った。復習をすれば伸びる塾なので、大体は1番上のクラスにいた。数3が一番概念がわかりやすくて自分でもできるので、やめる時期はちょうど良かったと思う。辞めた理由は、SEGの復習をする時に前の単元の内容を忘れていて、結局教科書を見ながら復習していたことだ。それならもう教科書やればよくねと思い、辞めた。

 嚮心塾には姉が卒塾した高二のタイミングで通い始めた。塾でやっていた勉強内容は後述したいと思う。高2は部活や委員会で忙しかったが、毎日通うことを目標に火曜日も含めて毎日9時半までいた。休日と平均して多分5時間くらいは勉強していたと思う。基本的には充実していたが、委員会が忙しい時期は、パソコンをいじっていると遊んでいるのではないかと母に疑われたり、姉にもっとできるだろと笑われたりすることが辛くて、先生に度々相談した。高2の12月に部活が引退だったので、そこからさらに気を引き締め始め、休日も朝から勉強し始めた気がする。高3になってからは、学校で国語と社会を履修しなかったので、土曜日が休みになり、土日は丸一日勉強していた。学校がある日も、私の学校は昼休み後のHRに出席すれば出席扱いだったので、そこにはいるようにして、遅刻や早退などをしまくり、そもそも微妙な進学校だったので授業は内職しても叱られないというか8割ぐらいの人がしてたのでしまくった。一限とか出なさすぎて卒業式で歌う歌を2回くらいしか聞いたことない状態で卒業式に出た。

そういうわけで高3は運動会の日以外は基本的にできるだけ勉強時間を多く取るようにして、塾にできるだけいるようにした。高3は浪人の時より机に向かっている時間は長くて、平日は7時間くらい勉強していた。私は家から塾まで片道1時間なので、往復2時間合わせて休日は13時間くらい勉強していた。

 受験がやってきた。共通テストは元々苦手で、時間がなくて対策も十分にできず、70%だった。英検準一級を利用できるのと、二次の配点が高い広島大学に出願した。私立は順天、日医から東邦くらいまでのレベルの大学10個くらいを受けた。結果的には昭和大学が補欠合格で、回ってこず、他は全て一次落ちだった。重なり続ける不合格に、絶望せずにはいられなかった。また私は緊張しがちで、共通テストは全く眠れず、二徹の状態で受けることになってしまった。国立大学も緊張して全く眠れなかった。先生には大健闘だよと言われたが、国立医学部を目指すには全く勝負にならない結果だった。悔しかった。頑張って頑張って、だからこそ緊張して、結果が出せなかった。悔しかった。後々開示して分かったのだが、私立は3、4個くらいが5点差とかで落ちていた。なぜ落ちたのかわからず、混乱した。そんな不完全燃焼のまま、私の受験1年目が終了した。3月は何もやる気が起きず、補欠の連絡に微かな希望を託しつつ、遊び、現実から逃げた。先生には、来年の1年間をどこで過ごすかは君が決める権利があると言われた。そして私は駿台市谷校で浪人することを決めた。なぜこの時駿台を選んだのか。簡単に、そして抽象的に言えば自分の弱さに向き合いたいと思ったからだ。私は自分の欠点や弱い部分に向き合わず、目を背けて人に転嫁してしまう癖があった。嚮心塾はなんでも質問してもいいということが、良くも悪くも私の精神状態を安定させていた。勉強のことも、それ以外も全て先生に投げて、自分では何も考えていなかった。嫌なことがあればとりあえず先生に吐き出せばいっかと思っていた。そしてうまくいかなかったり、また嫌な気持ちになったりしたら先生のせいにしていた。ただそれは、浪人する上では最悪な癖だと思った。本当に今の勉強は正しいのか。自分のことは自分しかわからないはずなのに、向き合うことから逃げていた。そこで、自ら考えて勉強しなければ成績が上がらない環境にあえて身を置くことを決意した。大手の予備校はほとんど勉強に干渉してこないので、自分で全てを考えて行動することができると思った。どこの塾や予備校にいても、受験は自分で考えて努力しない限り受からないと思う。

 4月からは駿台に通う日々が始まった。駿台では朝9時から夜の9時まで、ずっと同じ場所で勉強し続けた。一つの授業に出なくなると全くわからなくなるので、朝も絶対に起きなければならないと言う緊張感から起きることができていた。医学部専門校舎の中でも一番上のクラスに通っていたので、周りはほとんど旧帝以上を志望していて、全国から生徒が集まっているような環境だった。駿台で特筆すべきは、講師の質だ。私が通っていたクラスは全国でもトップレベルの講師が集まっていて、冗談抜きで1人残らず人間的にも学問的にも最高に面白かった。たまに講師室で話をしたりしたのだが、予備校講師は基本的に人生紆余曲折ありまくりみたいな人しかいないので、本当に貴重な経験だったし、マジでめっちゃ面白い人ばっかだった。人生で初めて明日の授業が楽しみという体験をした。友達もそれなりにできてまあまあ駿台生活を楽しんでいた。夏休みくらいから朝起きれなくなったりしたものの、毎日9時間くらいは勉強していた。お昼に近くのご飯屋に行くくらいで、別に高校の友達に会うモチベもないし、息抜きもしていなかった。日曜は17時に閉館するのでそのあとカフェで勉強するのがまあまあ楽しかったくらい。成績が上がっている感じはしなかったが、毎日予習復習が楽しかったり授業も楽しんで受けていたのでメンタルは安定していた。10月くらいに嚮心に戻ってくることに決めた。理由は、駿台の授業を切り始めたことだ。内容については後述するが、駿台は前期のテキストや授業は最高だったのだが、後期はレベルが高すぎるものが多かった。自分の実力から目を背け、トップレベルの講師がいること、トップレベルの問題に触れられることに安心している周りの人を見て、私は危機感を覚え始めた。また私は人よりも復習に時間がかかり、人が1時間かかるものに3時間かかっていた。授業は12月まであるので、このまま予習復習を続けていたら過去問まで手が回らないなと直感した。授業も切るものと出るものをバラバラにしていて、不規則に授業に出ていたのでそもそも授業に出にくくなったし、これは必要あるのかな?とか考え始めたらだんだん授業に出なくなって全体の勉強時間が減る気がした。すでに授業切りまくって屯している人が現れ始める時期だったので、その負の渦に巻き込まれたくないと思ったし、これから受験期に突入すると受験校や過去問のスケジュールだったり、勉強以外のことで相談できる人が必要だと思い、戻ってくることを決めた。自分で考えるベースは半年で鍛えられたので、全てを先生に託すのではなく、「相談する」ということが上手くなっていると思った。

 嚮心塾は何も変わっていなかった。戻ってきてすぐに防衛医大の試験があった。チャレンジとして受けようと思ったが、合格するのは厳しいし、他の過去問に時間を費やしたほうがいいと先生と相談して、前日に受けないと家族に言った。しかし受けるように説得されて結局鬱々とした気持ちで受けることになった。ほとんど対策もせず、マジで早く終われと思っていたのに、なぜか一次試験に合格した。他の試験を通しても思うのだが、多分私の中でできなかった、の基準が現役の時よりも高くなっていたのだと思う。今考えれば数学も化学も8割くらいあった気がする。それと10月は九大実戦を受けて、他の時間は普通に勉強した。

 12月からは共テの勉強を始めて、受験期に突入した。共テの日はどうせ眠れないので、先生や親と色んな対策法を考えて万全の体制を整えた。共テの日がやってきた。二日間とも寝れなかった。寝れなくてもできるくらい対策したので全く動じなかった。805点だった(宮崎換算で813点)。私はそもそも共通テストがマジで苦手だったので、8割いって大喜びだった。リサーチでC判定のところをいくつか絞り、色々考えて宮崎大学に出願した。二次型だったので、まあ受かるだろって感じだった。この時は日医や国福、順天に受かるなんて思ってもいなかったので、かなり弱気の出願だったと後悔している。私立は去年受けたところに加えて慈恵、北里、聖マリ、杏林、日大歯学部を受験した。歯学部を受けることに対して、親に残念だとかなんとか言われた。残念って何?と思った。先生とも相談して結局受けに行かなくていい共テ利用で出願することができた。最初は国際医療福祉大学の試験だった。私は、家を出たいというのがまず第一にあったので、一人暮らしができて、学費が安くてレベルも高い国福に現役の時からめっちゃ魅力を感じていた。また、国福に正規合格すると他の二次をたくさん蹴ることができ、国立対策に集中できると思った。なので、12月からかなりちゃんと対策をした。過去問も4年分は解いた。感触的には悪くはなかったが、まあみんなできてんだろうなとか思ってあまり期待はしなかった。次に関西医大の試験がやってきた。全くできなかった。絶望した。このまま去年みたいになるのかと思ったが、なぜかその時はやる気はなくならず、悔しい気持ちの方が大きくて、英語の長文をその日のうちに解き直して、音読しまくった。なんで落ち込むんじゃなくてやる気が出たのかはあんまり覚えていないが、その時は普通にもう一年というのが頭にちらついていたので、最後の開き直りみたいな状態になったのかもしれない。どちらにしろ序盤で失敗しといて良かったと今では思えている。北里の試験が来た。まあ受かったと思い、やっと少し安心した。そこらへんで国福の一次に受かっていて、めっちゃ嬉しかったのを覚えている。二月の一日が日医で、二日が国福の二次だった。国福は面接がめっちゃ長くて重いので、かなり対策をした。医療ニュースをまとめまくり、先生と最近の気になるニュースについて話し合ったり、教えてもらったりして対策した。生命倫理についても色んな考えを読んだり調べたりした。これは結果的に日医と順天の英作文で問われたので役に立った。防衛医大の面接のために基本的な質問には答えられるようにまとめていたのでそれにも助けられた。日医は受かると全く思っていなかったので、そこら辺の日はずっと国福国福国福で脳内がいっぱいだった。そこから連続で日医、順天、東邦、東医、聖マリ、昭和を受けた。東医、聖マリは確実に受かったなと思ったが、他はそこまで上手く行った気はしなかった。失敗した気もしなかった。結果的に全部一次合格した。国福は欠席が多いと面接で詰められ、落ちたと思ったがなぜか正規合格していた。しっかり答えたらちゃんと話を聞いてくれる大学だと思う。国福に正規合格したことから、日医順天以外は二次を受けないことになった。元々それが目的で国福の対策をちゃんとやっていたのもあったので、本当に良かった。日医は自己採点的には受かってるかなーと思っていた。集団討論の出来も悪くはなかったが、今年はボーダーが上がったこともあって、千葉県地域枠では正規合格したが、一般は補欠合格だった。順天は面接の感触があまり良くなく、補欠合格だった。

 ここで、国立を受けるか、国福に行くか、日医の千葉県地域枠にいくかという問題が生じた。先述のとおり私は一人暮らしをする、家を出るというのがこの1年間の唯一のモチベだった。日医だと家を出ることはできないし、千葉に9年間も縛られ、2年間は僻地に行かないといけないことが私としてはめちゃくちゃ嫌だった。かといって日医はネームバリューがかなりあるので、日医に行かずに国立や国福に行くのも勿体無いという気持ちもあった。本当に気持ち悪いが医者の世界はある程度学歴社会なので、というか学歴厨が屯している世界なので、偏差値が上の学校に行くというのはキャリア的に有利になるのは間違いなかった。地域枠だと20万円千葉県から頂けるので、そのお金で一人暮らしをしようかと思ったが、2000万円超の学費を払ってもらいながら一人暮らしをするなんていうお願いは私にはできなかったし、なにより親に負担をかけることは自分にとっても負担だった。また千葉県地域枠が地域枠の中だと制限が緩い枠であるというのも私を悩ます種だった。日医の千葉県地域枠は有名な病院で研修ができることもあり、他の地域枠よりもかなり人気が高かった。ただ15年後の自分の行動に制限をかけるということが怖かった。また私は色んな理由から関東を出たいという気持ちがあったので、35歳まで千葉に勤務するということは自分の人生計画にあまりに突然すぎた。女性は地域枠になると人生が詰むのでやめた方がいい、そんな内容のXの投稿を見ながら悶々とする日々だった。先生と相談し、絶望したりやけくそになったり、号泣したりした。結局は自分で決めなければならなかった。苦しかった。そのためにいろいろなことを諦めなければならないのではないかと思い、つらかった。最後は自分で日医の地域枠でいくこと、日医の一般の補欠と順天の補欠を待つことに決めた。今でもこの選択が正しかったのかどうかはわからない。日医の方がいいと親に言われて、色々悩んだのに後日LINEで国福でもいいと思うよ、と言われたりして、どっちなんだよとイライラしたりした。でも自分で決めるしかなかった。もう他人のせいにする自分でありたくなかった。合格したのになんで泣かなきゃいけないのとか、国立のために頑張ってきて、共テにかけた日々があったのに、弱気の出願をしたせいで諦めなければならいこと、弱気の出願をしなければいけないくらい自分に自信がないこと、そんなこと全てを責めた。でも最後は自分で決めるしかなかった。たまに思い出してやっぱりあっちにしとけばなって思うことなんて正直たくさんある。それでも私が選択したことを、私は自分で責任を持ちたかった。そうして国立の受験をやめ、私の受験は終了した。

 勉強内容について。まず現役の時。英語はずっと英文解釈をやっていた。数学は教科書から始めた。中学生の時に全く勉強していなかったので、教科書は体系数学2から初めて、高2の2月までに体系数学5まで終わらせた。2月からは基礎問題精講と受かる計算(数3)を三周して、高3の5月から一対一対応の数学を始めた。10月くらいまでに三周したと思う。基礎問題精講を終えた時が一番成績の伸びを実感した。定石を身につけることの重要性を感じた。そこからはひたすら過去問をやった。国立大学から始めて、私立を混ぜていった。理科は、高2の2月から始めた。宇宙一わかりやすいシリーズを夏くらいまで三周やり、夏からは物理は良問の風、化学はゴールデンルートを標準編までをどちらも夏の終わりまでに三周した。5月くらいに先生に良問の風を夏が終わるまでに終わらせないと厳しいと言われ、やってやるわ!と思って必死に勉強した。それからは名門の森の重要問題だけをやったけど完璧にはできなかった。化学は、無機と有機が覚えることが多すぎて途中まで限界を感じていたが、夏くらいに一旦読むだけじゃなくて丸暗記してみようと思い、全ページコピーして青ペンで塗りまくり、丸暗記したら無機と有機は浪人が終わるまで無双した。宇宙一は細かいところまで理解して暗記するとかなり詳しいことまで書いてあるので無機と有機は特におすすめ。物理も宇宙一はマジでいい問題が多いし普通に私立医の難しい問題が出ない学校(聖マリ、東邦、昭和とか)はあれだけで全然対応可能だと思う。高校で理科をガン無視していたので、単位が危なかったり補習に引っかかったりしていたが、秋から無双してクラス分けでも一番上に行く私を見て化学の先生の目が点になっていた。理科は秋からはセンター試験を20年分くらいやった。間違えたところはいちいち宇宙一で確認し、マークしたり書き込んで、宇宙一はボロボロになるまで使い込んだ。2回以上マークしているものはまとめノートに写した。それから過去問をやった。思ったより解けて驚いた。

 浪人時は九州大学を第一志望としていた。他塾のことをあまり書きすぎるのもどうかと思うので駿台の時の事はそんなに書かないが、私が特に成績が伸びたと感じるものだけ特筆しておく。前期の数学のテキストは基礎的で、イキっている駿台生に甘く見られがちだが、本当に良問揃いだった。浪人が終わるまで前期の駿台のテキストはやりこんだ(多分四周くらい)。基礎的といっても教科書から一対一の数学くらいのレベルだけど。あと駿台で一番良かったのは化学。化学は基礎レベルと旧帝レベルの間に知らないと解けない問題(標準電極電位、COD、芳香族化合物の配向性など)があって、その間を埋められていく感覚があった、通期の授業と夏休みの化学特講I(これがまじで良い)をやりまくるだけでできない問題がなくなった。あと国語は普通に授業が面白くて良かった。物理は、駿台の物理は微積を使うのだが、私には理解が及ばなくて合わないなと思ったので5月に授業を切って、ずっと名門の森をやっていた。10月に嚮心に戻ってきてからは、10月中は九大の過去問と、数学は前期のテキスト、化学は重問で有機と無機の復習、物理は名門の森をやっていた。11月に入ってからは私立の過去問も始め、ほとんど過去問に費やした。苦手な分野だけ問題集に戻った。12月は共テ対策で国語や地理、情報も始めた。地理はセンスもないし常識もないし地図の読み方も知らないしで、最初は本当に何もわからなかった。時間をかけても点数が上がらず、苦しかった。そこで先生に解いてわからなかった問題を丸投げして、考え方の定石やこれだけは覚える、というものをリストアップしていただくということを始めた。それを始めてからは徐々に点数が上がり始め、やっと60点とか取れるようになった。本番までひたすら解いて先生にお願いすることを続け、本番では74点を取ることができた。低いけど私の中ではほぼ過去最高点だった。今思えば過去問の解説が知識で殴るものばかりで、地理の考え方が全く理解できていなかったのだと思う。いちいち何十問も問題と解説を読んでわかりやすく考え方を書いてくださった先生には本当に感謝している。共テが終わってからは先生と相談して過去問のスケジュールを組み、ひたすら解いた。

 成績については、現役の時はほとんどE判定だった。ただ高校の時の実力テストによるクラス分けみたいなのはだいたいどの教科も一番上のクラスだった。現役生はE判定でも普通に受かると思う。浪人の時は九大はA〜E、他の国立を書いたらA、私立はA〜Cくらい。成績は流石に全く気にしないことはなかったけど、判定とかはあんまり気にしてなかった。浪人の時は現役生はこれから伸びると思っていたのでむしろ気を引き締めていた。

 受験期間中は、毎日ため息をついていた気がする。特に受験が連続していた時は心身ともに疲れていて、毎日だりーと思いながら受験していた。受験勉強を完璧に終えた自信はさらさらないので、勉強について私が言える事はあまりないし、先生に聞くのが一番だと思う。ただ、ある程度まで努力をする、勉強をするということが一番の自信になるということは言える。私の場合は今年の受験でも、ほとんど寝れない時や、体調が悪い時、万全の状態で受けたのに普通に感触が悪い時なんて山ほどあった。そんな時、絶対的な実力をつければ、多少失敗しても受かる。というか受かった。私は自信なかったけど。受験はうまくいかないのが普通だと思う。必ず不測の事態になる。それでも受かるくらいの実力が、大きな自信となる。逆転合格とか、直前に追い上げて勉強するとか、ピークを受験にもっていくとか、そんなかっこいいことは私にはできなかった。粛々と勉強し、たまに休み、条件が悪くても確実に受かる実力をつけて、受かったのだと思う。私は自信を持てなかったけれど、これから受験する人には、まあ受かるだろと思えるくらい、そんな自信がもてるくらい実力をつけて欲しいと思う。

 受験勉強は間違いなく地獄だった。毎日生きた心地がしなかった。日々机から天井を仰ぎ、夜眠る前に二度と朝が来ないようにと願い、また朝がくると絶望していた。2年間ずっと溺れているみたいだった。私は、思えばずっと、後ろめたさのようなものを感じて生きてきた。他の人が気づかない違和感に気づいても、それを見ないふりをしてやり過ごしていた気がする。私は、学歴と恋愛にしか興味がないこの世界が大嫌いだった。浪人期に一度辛くなって高校の友達と会ったら、大学の恋愛の話を散々されて、辟易とした。気晴らしに読んで共鳴した学歴と恋愛について書いたエッセイ本の著者が、高学歴だった。なんだお前らもそっち側じゃん。承認欲求が渦巻く世界が貧しいと思ったし、それに対してコンプレックスを抱えている自分がいるのも知っていた。そういうの全てが辛かった。学歴やお金、恋愛を求めて私たちは生きているのではない、私はそう思いたかった。そう思いたい、今でも。私の親は学歴厨で、そういう会話をしている親の話をずっと強張った笑顔で聞いていた。私の家はいわゆる医者家系で、私は自分が本当に医者になりたいのか自問自答する中高時代を送った。私は安易に学歴とお金だけを求めて医者になる人間にはなりたくなかった。医者になることは甘えなのではないかと思った。だから他の仕事を探したりしてみたけれど、私は医者以外を魅力的に思える価値観を既に失っていた。そんなことをずっと考えていたが、浪人の一年間で明確に医者になりたいと思うようになった理由を、先生と話していたことでやっと一つ見つけることができた。長くなるのでここには書かないでおく。先生と話すことで、私は色々なしんどさや苦しさの中で、答えが出たとまでは言わなくても、言い切ることのできるものが増えた気がする。また、この塾で勉強することで、私が感じていた親や世界に対する違和感は、見過ごさなくてもいいこと、見過ごしても苦しいだけであることがわかった。そういうことを感じる人が多いこの塾が私は大好きだった。日々本当に少しだけ世界に対して感じるあの気持ちを、もう見放さないように、これからは生きていこうと思えるようになった。

 浪人の時は勉強自体への不安はなかったが、現役の時は12時間以上勉強しても毎日合格するのか不安で不安で堪らず、本当に辛かった。毎日死にたかった。先生と毎日のように話し合い、同じことを何度も相談した。 現役の9月に入ってからの時期が1番しんどかった。日々涙を流しながら机と向き合い、1人になると涙が止まらなかった。行き帰りの電車で涙を垂れ流し、ホームで知らない人に心配されたりしていた。それなのに家に帰る前には、学校に着く前には、バレないように涙を拭いていた。弱さを見せられないことこそが私の弱さだったんだと思う。逆に、弱さを見せられることは強さだと思う。強がることは、偉くなんかなかった。自分の首を自分で締めていることに気づかない私は愚かだった。こんなに辛い思いをしてまで得られるものは何なのかと、問い続ける日々だった。それでも誰にも言えなかった。受験に落ちた時はストレスで蕁麻疹が止まらず、涙も止まらなかった。今まで頑張り続けたのは何だったのかと思うとしんどくて仕方なかった。それでも、何も言えなかった。自分勝手なことに、頑張っても報われないじゃんと色んな人に怒りを覚えることすらあった。それでも言えなかった。言えなかったから、私が頑張っていること、しんどいことは伝わらなかった。だから親は毎朝起きるのが遅い私にそのままだと二浪するぞと言っていた、頑張っていないと思われていた。人は、周りにそう思われることに対し自分もそのように行動するようになると思う。だから私も結果が出ているのに、なんとなく二浪するのかな、私は頭が悪いんだなと思って、自信が持てなかった。頑張っていないと思われることで、私は全く頑張ったと思うことはできなかった。浪人期はどう考えても現役よりも結果が出ていて、頑張っていたはずなのに頑張ったと胸を張って言える記憶が全くもってない。

 私の親はスマホを使うことを過度に嫌う人間だった。浪人の10月頃にスマホが水没して使えなくなった。親はやっとスマホがなくなったと喜んでいた。浪人の一年間の私の唯一の生きがいは、毎日夜に知り合いに連絡することだった。電話したり、たわいもない話をすることで、なんとかメンタルを保っていた。その人の肯定的な言葉によって自分を認めると言うことができたからこそ、現役の時とは違って精神が安定していた。それらはもちろん、成績の安定にも直結していたと思う。隠れて使っていたパソコンがバレて、連絡する手段がいよいよなくなり、半ば絶望した。それからしばらくは連絡できず、考えると精神がおかしくなりそうだったので、もう考えまいと必死に自分の気持ちを殺した。殺した気持ちは死にきれず、たまに何もしていないのに涙が出てきた。愛には適切な量と方向がある。人生の節目である受験に挑む私たちは、しばしば不適切な量と方向の愛に出会う。教師であったり、親であったり、友達であったり。本人は本気で愛を持って対峙しているにしても、相手にはしんどい思いしかもたらさないことが、山ほどある。現役の時は毎日死にたいと思っていたが、浪人期は絶対に生きて合格したいと思っていた。ただその時だけは、本気で死にたいと思った。自分のことを一番考えてくれているであろうその人が、私のことを何も理解していないんだと言うその事実が、苦しかった。厳しい現実ではあるが、適切な量と方向を持って自分に接してくれない人とは、距離を置くという方法しかないと思う。どれだけその人が自分のことを考え愛してくれていても。親不孝な娘ではあるが、こんな家早く出て行ってやると思って努力していた。その気持ちは今でも変わらない、私は合格した今、もう自由に生きていけるんだという事実に心から喜んでいる。私が課されたあらゆる制限は、私を苦しめるものでしかなく、このような結果に導いたのは紛れもなく私の努力であることを、ここで強調しておきたい。私は私の努力を努力とみなさない彼らを、「結果で殺す」つもりで努力をした。

そしてこれからもそうだ。私は他人と比べない、自分のできる最大限の努力をしている人を決して笑わない。そういう人に寄り添う医者になって、私の努力を笑った人間たちを結果で殺そうと思っている。

最後にはなりますが、こんな私を絶対に見放さず、最後まで向き合ってくださった柳原先生には本当に感謝しています。チューターの方々や、友達、そして色んな面で私のことを考え、支えてくださった家族に感謝します。本当にありがとうございました。





O・Kさん(武蔵野大学高校3年)  慶應義塾大学文学部合格(進学先) 
                                                                 
他合格校:立教大学文学部
嚮心塾に1度目に入塾したの
は小学5年生の頃でした。当時の私には、わからないことを隠し、理解できたと嘘をついてその場をやり過ごし、勉強を後回しにするという最悪な癖がありました。柳原先生は私のこの悪癖をすぐに把握し、毎日のように「わかったふりするな」「僕に説明してみなさい」と私に言い、本当の理解へ導こうとしてくださいました。しかし精神が未熟であった私は、この行為が本当に辛く、自分の頭の悪さと向き合うことから逃れたいがあまり、解答解説を暗記してみたり、そもそも質問をしない、など勉強と先生から逃れることに必死だった記憶があります。その結果、一切興味がなかった第三志望の偏差値45前後の私立中学にしか合格せず、小学校卒業後は逃げるように退塾しました。

その後、中学3年間は全く勉強せずに遊び呆け、そのまま付属の高校に内部進学しました。私の高校は普通科、国際英語科、特別進学科の3つのコースに分かれていて、私は母の勧めで国際英語科に入学しました。推薦受験も一般受験にも対応できる英語力と主体的な姿勢を育てると宣伝していたこのコースは、蓋を開ければ推薦受験以外なんのサポートも得られない上に、毎授業大量に課題を出したり、教員が河合塾の解説を音読するだけの授業など、私が期待した一般受験の学力もしっかり付けつつ推薦受験についてのサポートも得られる環境とは掛け離れたものでした。

ここで一旦、私が何故推薦受験を視野に入れていたのかを説明すると
・そもそも毎年2/3以上が推薦受験で大学進学する高校だった
・中学時代から勉強は苦手だが授業内のプレゼンやアイデアコンペティションは得意だった
・高校入学前の春休みに若干大きめなアプリ開発の国内コンペで賞を取った
以上の理由で流されやすい私は、高1の頃から一般受験だけでなく推薦受験もなんとなく視野にありました。

学校だけの勉強では一般受験の学力が付けられないと焦った私は、高1の夏から西荻に本校がある某怒涛の合格学苑(以下学苑)に通いました。かつて嚮心塾に通い大学に合格した兄からは「また嚮心塾に通えばいい」「高1から嚮心塾に行けばどんな大学にも行ける」と嚮心塾に戻ることを強く勧められましたが、中学受験の苦い思い出がある私は2人の助言を聞かず、学苑に入塾しました。大学受験で中学受験の失敗を巻き返すぞ!と燃えていた私は、週1回の英語の授業に加え、毎日放課後5時間自習室に通い勉強しました。努力の甲斐あって学校の成績は見事に上がりました。しかし模試の偏差値は一切伸びませんでした。理由は明白です。その5時間の自習では、すべて学校の課題や大量の小テスト、定期試験の勉強をしていたからです。厳密に言うと、学校の勉強が模試に繋がらないのではなく、私の勉強方法が悪かったのです。私はほぼ毎日ある小テストで確実に点を取るために、理解よりも暗記を優先していました。その結果、学校の試験以外では何の応用も効かない中途半端な知識だけ膨大な時間をかけて暗記していたのです。『next stage』(英文法、英熟語の問題集)という参考書がその筆頭です。嚮心塾入塾後に柳原先生から「それ意味無いよ」と指摘されるまで、ネクステの答えを丸暗記して、試験でそれを書き写せば自然と学力が伸びると信じていました。教員がそう言っていたからです。

全く模試の偏差値は伸びないまま必死に高2の夏まで学苑で間違った勉強をしていた私は、ついに一般受験を諦め、推薦受験一本で勝負しようと決めました。しかし母親にもう一度説得され、高2の秋に嚮心塾に2度目の入塾をしました。5年ぶりの嚮心塾は何も変わっていませんでした。そこかしこに山積みになった参考書、キイキイ鳴る机、いつも若干機嫌が悪そうな先生。「またここに戻ってきてしまった…」と思いました。しかし、受験まで時間がなく、それなりに私にも危機感があったことや、2年間続けた自習室通いのおかげで意外にすぐに慣れて、毎日習慣的に通えるようになりました

嚮心塾では英語の勉強方法を一から見直しました。それまで文法的知識について、ネクステの答えを暗記して勉強したつもりになっていた私は、「関係代名詞目的格」「自動詞/他動詞」「従属接続詞」等の英文法用語を一切知りませんでした。学校で習った記憶もありません。そのため、最初は嚮心塾で英文を品詞分解し、どの品詞がどの順番でどう働きながら並んでいるのかを全て書き込む勉強に苦戦しましたが、慣れるとパズルのようで、英文を読んでいる時、勝手に手が品詞の番号を振り分けるくらい自然に品詞を見分けることができるようになりました。英語の品詞の構造がわかると、単語の意味が若干分からなくてもなんとなく読めるようになりました。それまで私にとって英文とは、意味を知っている単語を頼りに読むものでした。そのため、わからない単語が少しでもあるとその先が読めなくなり、点数が取れませんでした。しかし、嚮心塾が徹底的に英文法を鍛えてくださった結果、丁寧に英文を解釈するという技術が身に付きました。2年間不動だった模試の偏差値も、嚮心塾に入って以降徐々に伸び始め、英語への抵抗感もかなり軽減しました。

そうして一般でも使える勉強と並行して、高3の夏から慶應大学文学部自己推薦入試と、立教大学文学部の自己推薦入試の準備を始めました。

立教は志望理由書2000字、参考文献に学術書5冊という、まあまあ大変な出願書類がありましたが、夏休みに学校の教員や柳原先生に何度か添削して頂き、なんとか9月の出願に間に合いました。そして一次の書類審査も二次の面接試験も通過し、無事立教大学に合格しました。

慶應は志望理由書に加え、小論文3個と和文英訳2個で構成される総合考査という筆記試験があります。志望理由書は講師の向坂くじら先生に何回も添削して頂き、自分でもとても満足のいく内容に仕上げることができました。それに対し、小論文は全く上手くいきませんでした。まず、何を書けばいいのかわからない。模範解答も赤本にはついてない。仕方なくヤケクソで書いたものを提出しても、先生に全然アドバイスをもらえない。てか先生の添削の字が汚すぎて何も読めない。最初の方は小論文について何を聞いても「知らね」「自分で考えろよ」ばかり言われ、家に帰ってから毎晩のように両親に泣きながら愚痴ってました。(後に先生から「ここは自分で考えて粘ってほしい。自分で考えた方がもっと成長できると思ってああ言ってたんだよ」と謝罪されました。)毎回書き直しをくらい続け、成長している実感が全くなく、「どうせ推薦落ちて一般だ」と半分諦めながらも毎日毎日小論文を書いては書き直し、書いては書き直しを繰り返していました。しかし、成長していないと思っていた小論文は段々力がついてきて、一回でマルをもらえることが徐々に増えてきました。それにつれて私の質問する技術が上がったのか、先生が書き直しをくらうたびに意気消沈する私を可哀想に思ったのか、小論文についての質問も上手くいくようになり、1度目は書き直しするよう言われた問題も、先生の解説や理解が深まるようなお話を聞いた後に書き直すとマルが貰えるようになりました。先生はどんなテーマの文章に対しても深い知見を持ち、無知な私に沢山の知識や勉強になる本を与えてくれました。先生は模範回答を私に与えるのではなく、私の思考と経験を踏まえた私にしか出せない答えを出せるよう、ヒントや関連した話題を提示してくださったのが、私の小論文を書く上でとてもよい成長の助けになったと感じます。

和文英訳は秋から本格的に対策を始めました。英文から英語品詞を見分けることは、それまでの嚮心塾での勉強おかげで出来るようになっていましたが、和文英訳のように和文の意味を正しく理解し、その意味を保ったまま正しい英文を書くことには苦戦しました。初めの方は文法も英単語の綴りもめちゃくちゃで、もう無理かもと思いながら解いていましたが、先生の「和文を完璧に訳そうとしなくていい」というアドバイスを受け、徐々にまともな英訳が作れるようになりました。

立教大の二次試験面接日の1週間後が慶應大の入試でした。立教大学の面接対策は学校の教員や柳原先生に頼み、とても熱心に練習していたのですが、入試本番では用意していたことは全然質問されず、予想外の質問ばかりで全く上手に受け答えができませんでした。私が言葉に詰まり黙り込んでしまった後、面接官に「じゃあもう大丈夫です、面接は以上です」と言われた時は気が遠くなりそうでした。絶対に落ちたと思い大泣きしながら帰宅し、翌日から切り替えて慶應に向けて猛勉強しました。先生は私の面接の手応えを聞いて「そんな面接する立教は入らなくていい、慶應入ろうぜ」と軽く励ましてくださったのをよく覚えています。慶應入試前日、先生がかけてくれた「時間内に解き終わること、和文英訳で三単現のS付け忘れないこと、この2つだけ達成すればいい」という言葉は、教授に気に入られるような完璧な文章を書かなければと焦っていた私の緊張を取り去ってくれました。

慶應入試当日は先生の言葉のおかげで全く緊張していませんでした。私のやれることをやろうと前向きに、とても落ち着いて解くことができ、今までで1番の手応えを感じました。もし落ちてたら恥ずかしいので誰にも言えなかったのですが、内心これは受かったなと思いながら解答用紙を提出したことを覚えています。そしてその直感は当たり、私は慶應義塾大学文学部に合格しました。

嚮心塾で推薦の準備だけでなく、一般でも戦える学力を付けることができるように学習を進めることができたのが私にとって大きな安心材料となりました。周囲の推薦受験を受ける友達は推薦受験以外何の用意もしていない場合が多く、落ちても一般受験できる学力がない状態で推薦に全てを賭けている人ばかりでした。しかし、嚮心塾では一般でもなんとか志望の大学に行けるよう、英語、古文漢文をしっかり学ぶ勉強計画を先生が立ててくださったため、「この推薦落ちたら高卒、一般なんて絶対に無理だ」という焦燥感に苛まれることなく、集中して推薦受験に挑むことができました。

柳原先生は私にとってはあまり優しい先生ではないです。優しくないけれど生徒思いの先生です。私と真剣に向き合い、進路や受験について一緒に考えてくれる大人が柳原先生でよかったです。本当にありがとうございました。





M・Sさん(国立音大付属高)   筑波大学芸術専門学群合格(進学先)

私は高一の冬に嚮心塾に通い始めました。
私が通っていた高校は自由でのんびりした学校で、宿題や課題がとても少ないので、塾の勉強をメインにして勉強できました。

3年の履修科目の選択の相談をした時は、最低限の履修でよいとアドバイスをいただきました。学校の先生にはもう一度よく考えてと言われましたが、柳原先生に言われた通り最低限の履修で貫きました。そのおかげで3年生の時は学校での授業は空きコマがたくさんあり、週5日のうち4日は午前中までで下校することができ、ますます自分なりの勉強をマイペースにできました。

私はやりたい勉強がなかなか見つからず、進路を決定するまでたくさん迷いました。最初は理系の方に進もうと思っていましたが、しっくりこなくて文転したり志望する学部もころころ変わっていましたが、その都度先生は寄り添ってくださり的確にアドバイスをしてくださいました。
学校もクラスが文系理系に別れない学校だったので、柔軟に進路を考えることができました。学校の先生も度重なる進路の変更にあたたかく寄り添ってくださった事も私にとって幸いな事だったと思います。

そして3年の夏頃に筑波大学の芸術専門学群の推薦入試を受けようと決めました。やっと本当にやりたい勉強が見つかったのですが、試験本番まで2、3ヶ月しかなく対策を始めるのがとても遅かったです。しかし、先生が美術に関する本を貸してくださったり論述の添削をしていただきました。

勉強だけでなく進路の相談にも乗ってくださったおかげで後悔しない選択ができました。
今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました。

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